「ゴギーの死」

 

                                                 白石潔 著

 

プロローグ

 

かつては、サナトリウムで大戦時代には、ドイツの占領下に在ったこともあり、当時の暗幕が、シャペルの横に佇む講堂に未だに残っている。人気の無い、かなり特殊な空気の漂いがあり、不思議さが兎に角、不思議としか言いようが無い。

エイは、その母体となっている精神病院で、他のインターン達と大学から派遣され仕事と勉強を始めた。

慣れない土地柄や冬場の厳しい気候に、いささかてこずりながら日々の業務をこなしていた。

ある夜の出来事である、地域の医療を支えている基幹病院であるが故に、遅い時間だが、新しい患者が、警察と共にやってきた。アドミッションと言われるサービスで、彼を診ていた同僚は、全ての処置と方針を決めて、ことの手順は終了した。

タバコをふかしていたエイは、ボーっとしながら「自分でも何を考えているのか?」が、分からないまま“タバコの灰が床に落ちた跡”を眺めていた。彼は一人で、呟いた「ゴギーが死んだ!」と。

午後の出来事だったのか?夢だったのか?遠い昔の出来事だったのか?人の体験だったのか?聞いた話だったのか?でも、「この死」は「確かなものだ!」「床に落ちたタバコの灰と同じぐらい確かだ!」

「何故だろう?」「この確かさは?」「なぜ?」という問いこそが、「変なのかもしれない?」

「自分が、自分に、他人のように問うている?」「いや、これは問いではない?」「穴だ!」

穴からの声にならないコトバらしいコトバじゃないもの。

俺が、そこにイル。「ゴギーが死んだ」とは、「俺の“死に場”がある?」という「変なように、変ではない。」

ある日、誰かが言っていた、と、云う、き・お・くが有る。これは、た・し・か・な・こ・と・だ・断言、唯の、意味の無い、断言、「語・戯・我・死・ん・ダ」、なんか変なほんとのこと。

「し・さ!そ・れ・は・死さ!」「それは、見えるとこに在るのか?」、確かなところにしか、在りえないもの。

俺が俺ではなく、俺がお前でもなく、俺が俺を俺として俺を実感してるに過ぎない、俺にとっての俺の確かな場だが、俺はそこには居ない。見えていた俺は、鏡から消えてしもうた。「見えない、見える・場が、在るんだよ!」「誰?」、といっても「誰か!でしかない」、「誰・か・の・“場!”」「その・場・とは?」、「ひ・と・ひ・と・と・死・て・の・場・?」

この場は、探せない。誰にも、探せない。唯、確かに、在る、場・場所じゃない・

この在る場は、「人・人」の、関係・産みの親・これが・「構造」・「なんだよ」・構造は「数学だ」・数学はまた・また・変な・場・「数学は・日本語で・書けるかな?」「でも、今、書いてるのは?」・「書けることは、既に・数学かな?」・「それは、確かな・答え」・「でもね」、「この、確かな・答えを・書けるかな?」「数字は・文字」・「文字も・数字・だとしたら」、「日本語も、数字?」「数字が・文字ならば」、「日本語も、数字の・はず・だけど?」「たしかに、この様に、書けば、数字だね!」

構造は、数学。数学は、文字。文字は、数学。数学は、構造。構造は、「人・人」から、産みだされる。「人・人」から、生まれる、構造は、文字、という、数学。数学、に為るしかない、コトバ、が、そこに在る、コトバが生み出す、構造・が・数学・だから・そこに・場・が・用意されて・いる。俺が・俺では、無くなり、人・から・視る・と・死人の俺、として、消えてしまう。では、「死人の俺は?」「どこ?」、に・「いる?」の・「かな?」・「どこにも、いなくなる、死か、無いような、死の・碁・場・やね。」同じに、見えそうで、見えない、もの、我、見える。そんな・場。それが、「死者=人・人」・我・産み・出された・「場」・「なのさ!」

「ゴギーが、死んだ!」・「ゴギーが、死んだ」・「ゴギーが、死んだ」・と・呟いた。

その、呟き・の・声・を・聴く・俺・を・聞く・俺・が、俺・が・俺・では・アリ・え・ない・「場」・に・鳴る・かな?

「ゴギーが、死んだ!」は、「落ちた、タバコ・の・灰・を・みている・俺・の・俺・が・俺・を・眼差し・て・いる・眼差し・の・メ・が・眼差し・て・いる・“場”・に・在る・コトバ」が、「ゴギーが、死んだ」・「だ・った・ん・だ。」そんな・「場」・に・「誰・が・いる・の?」子・の・問い・は、数・学・だ・か・ら、文・字・で・死・か・あ・ら・わ・せ・ない・「一人・で・は・アリ・え・無い・場・所・にしようかな?」・と・云えるような・「バ・カ・な?」

「宇宙の問題に、似てるね?」と誰かが聞いたら?「そうだね、皆、死んでしまったモノを観ていながら、“見えていないような・視え・てる・モノ”を“診てるから音”」・「何の、不思議も無い“世界”が“コトバ”の“数・学”」が、産み出す「構造だな!」

「でもな~…?」、「みんなが、クレタ人のような、“人間”でない」、「ひ・と・り・世・我・利・の・“場・愛”がある!」

「場・可!!!」な、「不可能な“場・何”が、異・流・ん・だ・な~」「“コト・場”の“産み・の・お・や・な・の・に”」「何が?」「不可能が!」「不可能=“掟”“法”が、ある・ユエン・は・“星”を・“盗もう”としても、“それが、もう、死んで、しまっている”ことを“知らない!?”人・間・達・だ・音(聴けない耳と喋れない声を“全く正反対に思い込み・信じ切っている・欲・不・快・熱・狂・者”)」

「簡単な、事、こそ、一番、難しいね!」でも、「考え方・次第・で・“どんな”“結論”“も”“正しく”“出せる”“んだ”“よ”」「これが、“人・人”で、“構造”で、“すう・がく”で、“言葉”に、な・り、“聞こえるし・聴こえるし・聞けるし・聴くし”“だから”という・子・た・え・“宝”に、成る・んだ」と呟き声が“き・こ・え・る・ん・DAS・Ne!”という訳である。

 

第一章

 

ここの事情は、今までとは少し訳が違うという印象を毎日と味わっているような心境を、エイは拭い切れない。「ゴギーの死」を体験して以来、パトロンと時折ディディエが燻らせる葉巻の香りを味わいながら、バカンスの時に実験的にお土産代わりに買った葉巻を、自分でも味わってみた。火をつける前の香り、端をカッターで切り落とした時の香り、葉巻を舌で湿らすように撫でている時の香り、火を付け口の中に仄かに苦味と鼻腔にまで立ち昇って鼻を突くような香りと葉巻からゆらゆらと天井に広がり消えていく煙の香り、葉巻を燻らせながら半分を過ぎると、味の濃紺が急激に変化する状態での、香りと味の変化。

彼らは、この様な様々な味や香りの変化を楽しんでいるんだろうか?パトロンとは、ほぼ毎日の挨拶と仕事の件で、我々スタッフが集まることが慣習になっているが、ある朝、ラカンのことが話題になったことがあり、後にラカンの葉巻がかなり特殊な形態をしていて、驚きを感じたことがある。キューバ産ではどうも無さそうだが否定は出来ない、スペイン系かイタリア系か?いずれにしても、一般には目にすることの無い葉巻で、ラカンセミネールで、話をしながらの葉巻としては、ラカンには都合が良い機能的な葉巻で、灰の落ち方が他の葉巻に比べると随分と違い、空気への触れ方もかなり違っていることは、明らかである。

「この灰の話しは“考えると面白い”」とエイは思った。昨日の病棟での夢幻様の意識の戯れを覚醒させたのが、床に落ちたタバコの灰であったが、この落ちた床の灰が自分の夢幻意識への入り口であったというのも明らかだった。

精神科の医療の歴史は古い。ルネッサンス以降の「医学の“心臓から脳”への“学問の中心点”の変換」の中で、「医学を進歩」させたのが、皮肉にも「ヒステリー患者が示してきた“症状群”」で、「徴候・症候・診断・病因」の体系を明確にして行くことが出来たのが、なんともこの学問の虜に為っていった医学者達の学才をかき立てて行ったのは、当然のような現象であるだろうし、大きな社会の課題への発展に「人間を巻き込んで、“市民にも自分自身の生き様”に“目を向けさせる”」事に、繋がっていくことに成ったことは「大変大きな事」であって、特に、「哲学者的な時期」にある「思春期から青年期」の「自らの存在や社会についての思索」に、役に立つことになる。この時期のテーマは、段々と薄れて行く時代には「もっとも大切なきっかけになる」し、「社会、そのもののが、“課題”として、“考えるべき要素”」に触れることにもなる。と、エイは、考えてみながら、「事後性」の効果を、「空想していた」。

患者達の呈する“症状”といわれるモノは、「10人10色」で、「みな違う」が故に、「分類・体系化を他の医学の対象としている“医学症状群科”と同じように、“徴候学”“症候論”“診断学”“治療論”」を、必要としたことになる。不思議だね!異常心理学や狂気や精神の病気!

それこそ、「いつ」・「どこで」・「誰が」・「何が」・「何を」・「何のために」・「どうして」・「どのように」・「なる」・が・結局・「ゴギーが、死んだ」に繋がっていく。

この学問領域には、恐ろしいほどの「人間の生命に関することの中でも、最も重要な要素を、宿している」という「事実がある」ということである。植物学の分類的博物学が、ドイツのクレペリンによって為されて、エイの知っている日本には、呉がドイツ語に堪能なこともあり「ヨーロッパの細かい“精神医学史”を、参照できなかった」と推測できるが、ピネルの弟子にあたる一人の人物にエスキロールがおり、「日本では、<仏蘭西のピネルは“精神病患者を開放した精神科医”として“よく知られた人物”>であるが、彼の業績は「クレッペリンもピネルに学んだように“解剖学・生化学・生理学・内分泌学・遺伝学・寄生虫学・熱帯医学・細菌学・免疫学”等と「昆虫・植物・菌類・毒性生物」等も「外因性の病原」として捉えたりした細やかな“観察記録”を怠らず、ノートに詳細に記載した文献」が残っている。また、クレッペリンとは違った視点から「精神疾患の分類」を試みたクレッチマーも、「気質や体質や体格」の“類型”の分類をしているが、ピネル達の研究の資料には「患者が示す“体制や姿勢”」に関する“デッサン”等、かなり貴重なものもあって「奥の深い、人間の在り様」を、この様な視点まで含め、「やるもんだ!」と、エイは大きなため息を付きながら唯、呟くだけだった。

そして、最も古くから今日まで続いてきたこの学問領域は「医学」と呼ばれるようになり、当然、「精神系精神医学」もその一域を担っている訳だが、この領域も「脳の研究を中心とした器質論的精神医学」と「精神の“環境に於ける機能・構造・力動”を核にした臨床を中心に体系化された“一般精神医学”」に再分化されているが、エイは、時代の変遷と共に“産業革命以来発展”をしてきた“技術革新”に、“人類は、果たして、進化しているのだろうか?”という一抹の不安と・疑問を抱えていた。

医学の領域で「真の“医学的な臨床・治療”」が、残る領域は、イギリス人のバリントが重要視した“患者・治療者関係”を軸にした“医学科”では、「多分、精神科・産科・小児科であり、物質エネルギー機能体を対象としたら人為的機動力を必要とする救命救急あろう」という確信を手放せないでいる。「ゴギーが、死んだ!」に、やはり、繋がっていく。「あ・っ・た・か・さ・さ!」、「生まれることは、同時に、喪失なの・だ」。

この事実は、「医学という学問の総体を“神経系・内分泌系・免疫系”という、“人間を生命体”として考える場合に“必須の三つのエネルギー体”である“エントロピーの物理学的調整機能”」が、「人間という“構造体”が、“如何なる、機構・組織・機制・機能・機序によって成り立ち、如何なる様相として変換された現象”を呈するか?」を考え、「医学者の基本的在り方」をさらに、「倫理的な視点」まで包括していることに為る。エイは、呟く、「ゴギーが、死んだ!」。この絶対肯定的なコトバで表現している「自分の“自己意識”は、“内なるコトバ?”で在るのか?“自分自身への問い”の形式」で、「ピネルの“場”」からの“発話”として“目覚めているのか?”等と考えを巡らせていくと、「ギリシャ時代、当然、それ以前から、“賢者として生きてきた人々は、殆どMEDICAとして、様々な思考や体験を続けて来た”という歴史が有った」ことを思い出す。当然、「“細胞組織”の“機能と構造”は、様々なエネルギー作用によって“ある種の機序・機制”を生じさせる“機構”である」と同時に「物理学であると同時に、数学的である」ことは、“自明の理”と為っているのは当然であるし、「科学的対象物としては、“最も、重要かつ複雑”なもので、“太陽系と呼ばれる宇宙環境の磁場である磁石上の球体環境”を前提としてしか考えられない“知的多細胞生命体”である」という“事実”は、「人間、さらに様々な生物の“認識論的理解”」には、「超科学としてしか形容する」ことの出来ない、ヘーゲル以来の“論理的・哲学領域にある弁証法”によって、実証されていくプロセスにあるしかない「超…数学の体系と計算式及び超…素粒子論」が、「自然に出現してくる現象」に、我々生物体は「その現象に、100パーセント遭遇することは確実である」。

勝手に巡っていくエイの思考は、いつの間にか、ある日、若い女性医師に、問われた・「人間・は・み・ん・な・お・な・じ・モノ・を・み・て・い・る・の・で・しょ・う・か・?」を・思い出していた。なかなかの問いだが、「現象学」に属しそうな問いでもある。エイの当時の答えは、単純に「言葉で承認している事に過ぎないもので、“同一・同相かも知れないし、そうでないかも知れない”」だった。もし、今、エイが、「同じ問いを、“同一人物”から、受けた」と、し・た・ら・「どう答えるか!」は、簡単なもので、<知覚は、人体機能の“不安定性を環境との関係で体験するもの”で在って、「言語の構造」に、「人間存在を委ねるしかない“場”」として“在るモノ”に過ぎない>となり、<何故?“あなたは「その問い」を、あ・の・と・き・に・選んだん・だ・ろ・う・か・ね!?”>と、と・う・だ・ろ・う・というのが<俺の見解かな?>

 

第二章

 

「火を巡る争い」という、ちょと変わった映画を思い出したエイは、「人間が、部族を作り小集落を、洞窟で生活していた時代」の、部族の課題が「生き残る為に?」ということに気付いた。

「生き残りとは何だ?」、この疑問は、色んなカテゴリーに分岐していることに気付く。

「生存競争」と簡単に、物事を片付けた進化論者に影響を受けた社会学者達や恐ろしいことに教育者達もいたという“事実”もある。この用語は、「“あまりにも特殊な言葉”なので、“使い方を誤ってしまう”と、“大変なことになる”ということを、予め“知って置く必要”がある」。

エイの観賞した映画が、「用語の間違った使用」についての「地獄変」を、物語っている。

人は、受精卵から誕生までの歴史を、少なくとも二段階ないしは三段階生きてきていることに成る。

「生存・競争」という日本語は、エイにとっては、「ホンマに日・本・語・か・い・ね・?」おかしなコトバやな。生まれるまでに“生き残ってる生存”は“せ・い・ぞ・ん・?”というていいかいな?せ・い・ち・ょ・う・か・い・な・?は・た・つ・か・い・な・?“大きくなる”、“大きゅうなる事・か・い・な・?”キ・ョ・う・そ・う・ち・ゃ・な・ん・か・い・な・?

ご覧のとおり、なんとなくじゃなく、おかしかろ?

い・き・の・こ・り・は・あ・た・ま・つ・か・わ・ん・と・な・!あ・き・ま・へ・ん・わ・!

そ・う・く・さ・ね・!あ・た・り・ま・え・く・さ・ね・!だから、この用語の使用法は、気を付けんと、お・お・ご・と・になる。お・お・事・過ぎるぐらい“じ・ぶ・ん・ち・に・ひ・を・つ・け・て・し・も・う・た・こ・と・も・わ・す・れ・た・こ・と・に・せ・な・い・か・ん!?”、“じ・ゃ・な・い・か・な・?”

エイの観た映画は、そんなことを、教えたムービーだって・と・呟いてる。

暗い列車から眺める景色、おもろいやろ!外が、暗いと、観ているモノの方が、見えてくる。明るくなるときは、ゆったりと景色が、少し・づ・つ・浮き彫りに、空間から、顔を、出して、目・鼻・立ちが、はっきり、してくる。人の集落なんだよな!「ひ」の、あ・つ・か・い・は、エイが、お・も・っ・て・い・た・と・お・り・で、し・よ・う・を、ちゅう・い・しないと、「地獄変」に為らざるを得ない、「宿命」を「自ら、自分自身」に「刑・し・た・!」ことに為る。「“ひ”の用心!」、「“火”の用心!」、「“非”の用心」だぜ!

こんな簡単な、事さえ、「分からん連中」が、「間違い!さ・い・よ・う!」で、威張っ・とたり・、人殺し、を・し・た・り・する件ね!よ・う・じ・ん・さんよ!よ・う・じ・ん・を・!お・こ・た・る・な・と・「じ・ぶ・ん・に・い・え・な・い・と・!い・き・の・こ・り・は・ぜ・っ・た・い・!ふ・か・の・う・と・い・う・“絶対に逃げられない可能性に<溺れ死ぬ・自殺の行為!だ・ね!>”」と、エイのおもいは、馳せる、馳せる。馳せるんだナ!エイの観た映画は、「人間の・共存・と・信頼・に・必要・な・勇気・を・もたらしてくれる・尊厳・と・愛・と・消失」を“実感させてくれた”“車窓”・に・写し・出された・ガラス・の・涙・だった。こんな、映画も有ったんだな。「涙ものでは無さそうな“不思議なムービー”」。

エイという奴は、結構、幸運に恵まれているかも知れないと、やはり、呟いた。

映画もそれと同じレベルに在るもので、様々なものが「メビウス状の帯」のように、繋がっている世界を、やはり、“実感している!”、“何か変?”、馬鹿馬鹿しい思い付きだが、ガリレオの宗教裁判の前の時代のプトレマイオスが称えた「地球は、果てしの無い“平面”である」という奴だ。「メビウスの輪」は、単側性の帯で表面をいくら触れて先に進んでも、「永遠に、同じ表面を進んでいるような特性」と、理解すると簡単な奴だ。プトレマイオスのいう「表面」を、仮に、無限大にまで拡げたと仮定すると、「あたかも、結論は、同じ平面の上を進んでいるかの如くの“錯覚”が起きる」。これは面白い、楽しい数学の世界になる。この秘密は、錯覚に有るのだが、「実は、メビウスの輪が、<何かの“最後の形”である>と考えると、「平面」をやはり、<何かの“最後の形”である>とすると「無限大の辺を持った、そこが“平面の空間”でしかない」。メビウスは、エイが、「幸福かも知れない」と、呟いたように、常に、「空」が産み出す「内と外が連続している空間」から「四葉のクローバー」のような「結び目を持った“空間”」にも至るし、その前提となっている“クローバー・ノット”と云われるモノの「結び目を“ほどく作業”も可能である」が、実は、この結び目を「計算しながら構成することも可能」であるようだが、この作業には「物理量」が必要十分条件を満たしながら可能となる、ある種の計算不能というべき「不確定」な「要素性」が「動的力学」として「作用しながら“多分、素粒子の、ひも理論”」を、想像も出来ない領域で、「超・・・・・物理現象」である「超・・・・・・ひも理論」の「構造」を「素粒子の原型」として「限りなく、近づく現象」が、「二つの磁場現象」を、「計測・計算不能値」として、「渦巻き現象」を「生み出しながら、“トーラスの形状動態”を呈し、「徐々に不完全ではあるが“自己分散・非分散運動”を連続しながら、“エントロピーの安定”を「“光子”の“速度”」では、単位速度としては現れようの無い現象に至るだろう。この現象は、論理的な構造式とエネルギーの基本運動の起源を了解すれば、仮説として単純に抽出できるものである。

 

第三章

 

「ブノワの“死”」は、少し考えを、違う角度から考える必要がある。「“狂気”と“死”」は、「狂気」には、「狂人を“死へと向かわせる”“何かがあるのか?”」という疑問が生じる。同時に、「狂人には、“人をしに向かわせる”“何かがあるのか?”」という疑問も生じる。「“狂気”と“狂人”」とは、「“何”を“基準”に“差異化”」が、出来るのか?単純な問いだが、「この問いへの答えは、無いだろう」。然しながら、「人類の長い歴史の中で、“法・掟”を必要な事態が生じた事実」と、「19世紀以来、“精神医学の体系”に“属する疾患”による“狂人”が“抱える狂気”」が、「他害・殺人・他財産権の侵害等」の「原因と結果」という「“因果律”を“社会の秩序”」を守る為に、「“通常の刑法”とは違った“法医学”」のカテゴリーでの判定による「結論=鑑定」に委ねることにし、「法務省の結論に厚労省は従い、厚労省の結論に法務省は従いながら、厚労省の結論に対し、最終的な結論は法務省の管轄に委ねられる」という、二つの行政機関が「相互に“裁量権”を“遵守する”」という有り方が、「三権分立」の基に可能となる。

「ピエールの“死”」は、又しても、ある種の不可思議さが、エイの頭を過ぎる。“トキシコマ二ア”の“死”に関しては、エイの受けた学術的な理論による“臨床像”の捉え方は、オントロギーの臨床での“死”とは異なっており、“反復強迫死の欲動”の臨床である。臨床家であった彼の苦悩は、この反復強迫に対向・退行する為のエネルギーによる状態で、大学病院に入院中に“自殺”をした。

「ロジェの“死”」も、エイは、思い出した。最後にロジェに会ったのは、「ロジェの就職できる“精神科”の“病院探し”で、分厚い辞書のような病院の目録とされる“ポタン”のページを捲りながら“夜中”まで付き合った夜」の体験だった。頭脳明晰で、インドでの海外医療支援の経験もある有能な児童精神科医だった。ロジェは、エイの回想の中では、「多分、アルコールに半ば溺れていたかも知れない」という思いがある。原因は、ひょっとしたら、エイの知り合いでもあるロジェの友人との性愛関係にも在ったかも知れないが、エイには、「彼には、“絶望”という“希望”を“保障”出来る物が、“壊れ落ちた”事が原因で“狂気”を生きる」という「存在に関わる“選択肢”を生きた」としか言いようが無い。「ナルシスの傷だ!」・・・・・「ゴギーが、死んだ」が、「ゴギーは、死んだ!」に、エイの中では、この不思議さが「文章の形式」さえ換え得る“力”がある事に、ゾーッとした。

パトロンの“死”」が有ったことを、タバコではなく葉巻を燻らせながら、記憶を過ぎった。ソーバージョとは、気が知れた同胞の学徒で、ウーリーとトスカイエスの主催する“集団精神療法”の学会には、必ず、足を運び“彼らのクラウネスク”の“語り口調と態度”を、我々、若手の学徒に“おもしろ・おかしく”、朝一番の会合の場で、“披露する様”が滑稽であったが、スペインの独裁政権を逃れてやってきた“トスカイエス”の“苦悩と生き様”は、「集団」についての“感受性”は、大きなものであったに違いないことを、感じさせられていた。

パトロンは、兎に角、「チーム医療」と「地域医療」を中心に、常に、本人自ら活動を独りであっても、“訪問”を続けていた。救急病棟の週一回のカンファレンスでは、「活動」「地域の患者」「入院患者」についてのディスカッションが行われたが、「スタッフからのシビアな激しい意見」を、いつも真剣に“受け止め”ながら、時折、“激しい怒り”も示したが、「この会合」は、あまりにも重要で、「スタッフ全員が、“パトロン”を待ち受けていた」のが、印象的だった。

彼は、マルキ・ド・サドの研究者といって良いほどの、「サドに関する、古文書の収集家」であり、「古時計の収集家」でもあった。「新しいものを見つける度に、“我々、若い学徒”を“自宅”に招待しては、“食後酒と葉巻”を配り、“鑑賞”させられたものだった」ことも、「彼の“ゴギー”が、死んだ」に、エイには、思えてしまう。「彼の“ゴギー”とは、一体、何だったのか?」。「サド・古文書・金銀の時計・ブリッジ・バックギャモン・ブッフ・シャモ猫・対話?」、考えても良く分からない。「“死者”の“書記”や“装飾品”」等、「殆ど全てが、“死”か“歴史”に関わる“モノ”で、“過去の座標”に“我が身”を置いていたのか?」

スイスの社交界であるサロンでは、「マルキ・ド・サド」についての“演者”だったり、多分、「ブリッジ」でも、やっていたのだろう。“ブリッジ”に関しては、負けず嫌いで「オンシェール」で「低いレベルでの契約で“勝利”する」と、パトロンは、「“これは、いんちきだ!”“もっと、高い契約が可能だっただろう!”」と、本気で怒っていたことも、エイにとっては、「彼の“ゴギー”だった!のでは?」と、呟いてしまう。しかし、このパトロンは、当時は、別にしても、若干、48才でこの世を去った。遺された物々は、「彼の“ゴギー”でしか無い」。「飼い主を失った“忠犬ハチ公”」のようで、「価値は、あっても、“その価値を、彼の価値”として、“その価値”を“彼として実感する”ことは“不可能”なことだ!」と、エイは、遺品の一部を観ながら、呟いた。「“ゴギー”は、死んだ」とは、同時に、「“ゴギー”が、死んだ!」と、「文体」さえ「変化してしまい」、「世界そのものに“埋めようの無い”、“隙間”のような“穴”が生じてしまい「何人も、“それ”を“埋める”ことが“不可能”である」ことが、実感される。エイにとっては、今度は、呟きでは無く、「あはァ~体験」に成ったのも、不可思議だった。

この「あはァ~体験」は、NHKのドキュメンタリーに由来する。このドキュメンタリーは、「冬場の永平寺」での「玉座に座する師家と修行者」との間で交わされている「禅問答」の場面であった。玉座のある部屋は開けはなたれたままで、修行者達は一人一人廊下から部屋に入り、「日本人でも“訳の分からない”“詞”で、“師家”に“問い形式”の“問答”」を、雪の深い北陸の山里で行っていたのだ。問答の時間は、正しく悠久とも云える“数秒間”の短時間で、次から次に為されていた。その中で、「これは、絶対だ!」と、思わせる一つの問答が今でも、エイの人生の核に成ったと云える「師家と修行者」の「問答」があった。修行者は、師家に「雪は、何時、止む、のか?」と、問うた瞬間に、師家は「白い、モノ、は、白い!白く、無い、モノ、は、白、く、な、い!」と発声した。エイは、「一つの表現で、全て、の、“構造”、を、現す、こと、が、可能、で、在る」ことを、目の当たりにして「驚愕」に近い驚き体験をしたのだ。これは、長い歴史の中で培われてきた「人間の“知”である」と結論せざるを得ないという事実と、ギリシャ以来の西洋の宗教・思想・哲学史に登場したスピノザヘーゲルフロイトラカンという人物達が、大きな存在であるという事を、改めて、「オシテ・知る・ベシ」と理解できた。しかも、ギリシャに登場していた哲学者であるアリストテレスが、ラカンの引用によって「黒い物は、黒く、黒くない物は、黒くない」という数理論理学を「文章化していた」ことを知った。

「モノ」とは、「否定」という「命題」の「対象」として、「“在る”“訳”だ!」。日本の金子武蔵は、ヘーゲルの「否定」に関する唯一の「対象」となる「モノ」を、「Ding」とカントが「対象」として「定位した“Das Ding”」との分節化を、見事にコジューブの“講義録”と同様の、金子の“講義録”の中で“示唆”を可能にしている。一見、見落とされがちな内容だが、「恐るべき“事”である」。余談に成ってしまうが、カントの「Das Ding」は、ビオン理論の“核”に成っており、小児科医で児童分析家であったウイニコットは、「Human Nature」に、さりげなく面白い一節を書き記している。「“初乳”とは“論理的な”“モノ”である」という下りで、エイにとっては、ウイニコットの小児科医としての体験が、「如何に、大きな、体験、で、あった、か!」を、例証しているようなものであるかが、良く分かる。Presenting Object,Handring,Holdingの三要素が、Holdingの中心概念だが、「忘れ“モノ”は、“何”です、か?」と、問いたくなることもある。このウイニコットは、エイの同僚でクラリネット奏者のエムが、紹介してくれたのがきっかけだった。彼の消息は、今は、分からない。これも、「“ゴギー”が死んだ!」と、同様の意味合いと価値になる。パトロンが残し、エイの手元に“場所”を“借りて”“棲んでいる”“本達”とは違っているが、エムは、エイの手元に「ウイニコットの“本を二冊”」だけ残して、去っていった。

不思議なもので、パトロンが早朝に自宅で様態がおかしいと呼ばれたのは、当直をしていたエムで、エイは、エムに呼ばれて、パトロン宅に直行したのだった。フォト・センシビリティ、イペール・オーディオ・センシビリティ、モウ・ドゥ・テット、アンコンチネント・ウリネールを、コンベルションを呈せずに、列記した症状を呈している事は、「不思議な“脳組織の変容”で、あった」としか、云いようがない。エムは、エイに、囁くように「不可思議さ」を訴えていたが、「只ならぬ病態である」ことには、「“疑問”の“余地”」は無い。

パトロンは、すぐさま大学病院の救急集中治療室に搬送された。脳は、血液の洪水の中で壊疽死を免れない酸欠状態で、脳幹部まで侵食されている状態で、人工的に植物人間化した所謂“生きる死・か・ば・ね”を抱えながら機械がパトロンの生命を保存している。この電気仕掛けの“生命の舞台”を、エイの延命行為に近い医療に対し<“君にとっての死の問題は?”という問いを発したパトロン>は、<どう自問するのだろう?>という“問い”として鏡像ともいえる<“二者のゴギー”>に送り返される“構造”を演出している。

結局、電気仕掛けの生命の舞台は<“ゴギー”を見守る“家族(パトロンの妻)”>によって「ス・ウ・ィ・チ・ー・オフ」され、パトロンは“ゴギーとなり永眠”を遂げた。パトロンは、妻に自分が“ゴギーとして死んだ時”のことを<ニ・フルール・ニ・クーロン>と語っており、火葬されひっそりと埋葬された。その墓の場所をエイは知らないが、<プー・アン・ポルト!>で葉巻と蔵書というゴギーこそがその墓場でもあることを知らされている。

 

第四章

 

エイは、羽田の飛行場での体験を、タバコの煙の中に蘇る光景としてぼんやりと眺めていた。それは全く予想だにしなかった“目に・見えない・壁”の存在だった。エイは、その見えない壁にごく普通の動きと共に“は・げ・死・い・激突”をした。日本を後にする当日の羽田での出来事だった。あたかもその見えない壁はエイを“と・う・せ・ん・ぼ・し・て・る”ような不思議な障壁だった。しかも、顔面から突進したエイは全身打撲といって良いような“え・た・い・の・し・れ・な・い・い・た・身”を感じていた。葉巻の煙には、その痛みが宿っている。

エイは、最後の日本の日を知り愛と過ごす計画をしていた。然しながら、一人で過ごす時も必要で、新宿・神宮前あたりを散策したのだが、この一人の時とは“過去の亡霊との時間でもあった”ということである。それというのも、一人の時間永久=日本での過去を現在に凝縮した時間を過ごすことで、エイを写し出させる鏡に疎外を受ける体験でもあったのだ。この鏡と飛行場での透明である見えない壁の体験は、物理的にも精神的にも衝撃の体験であった。

エイの過去の全てを集大成としての鏡になるものは“は・つ・来い・の・人・ぶ・つ”であった。知り合いとの最後の晩餐は大切な儀式であったが、エイは“特別な人物”との最後の時を過ごす時を悠久の時間軸の中で生きていた。そこで交わされ行われたモノは、単なる過去を写し出す鏡所ではなく、その人物がエイの過去を写し出しながらその人物の未来を写し出すモノと為っていた事であった。「わ・た・し・は・け・っ・こ・ん・死・ま・す・・・・・・・・・・・・・・・・・・!」という音楽であった。その下りにエイは、打ちひしがれた。エイのそれまでの人生の全ては、その人物に預けられて、最後の儀式が亡霊と共に在ったのだが、全ての過去が<エイのエイを写し出すエイの亡霊にその人物の未来が写し出されてしまった>という事実になってしまったのである。エイの初恋は、見事な錯覚の中での「死・つ・れ・ん・体験」であった。エイは、その人物の世界で<我が存在は、取るに取らぬ存在で、愛の対象に為り得ない>と思い込んでいた。然しながら、事実という歴史的な時空では<全くの正反対で、エイの存在は、その人物の世界を色濃く色彩化していた、愛の対象であった>ことを、エイの知り合いから聞かされて知った。

神宮前の神社での祭りの風景を目に焼き付けて、その人物を家に送り、ホテルでの知り愛達との儀式に臨んだ時には、時計の針はかなり回っており、エイは半ば無頓着になっていた。食事は終わっており、ただ「し・ん・ぱ・い」という風が吹いていたのだ。エイの明日は、「もう、日本という地に足は付いていない」という、<時空移動>の時である。愛達と最後の東京を、日本を体験するため、タクシーに乗り運転手が想うとおりの道を走ってもらい、その車窓からの風景を目に焼き付けた。

疲れ果てたエイは、子じゃれた高級ホテルの部屋で眠りに付き、日本を後にする飛行機に向かう間の出来事が、<見えない壁への衝撃>であったのであった。

 

第五章

 

幾ばくの時が流れたのか?エイの頭によぎるこの物理的時間の不可思議さを改めて実感していた。しかも、タバコをくゆらせながら・・・・・・・・・・・・/////・・・・くねりながら落ちていく灰を眺めていた。<ゴギーが死んでいる><そうだ!ゴギーは死んだ!>と頭の中を過ぎって行く虚空のメッセージが響いている。臨床の世界を垣間見て廻りくる体験は、故郷を超え・国境を越え・か・ん・ど・う・同然の我が両親の住処に戻りつき、十数回のヤドカリ状態を経て、高級団地としか形容の仕様のない高級マンションに停泊している。エイは、自分の生き方にはゴギーの棲家作りの連続しかないのか?と呟くしかないと溜息をつくのみだった。

「ゴギーの死」を一生かけて追い求めるしかないのか?只、自問自答するのみの発見しかなかった。精神科の臨床は、人間に残されている唯一なる深遠な医学の世界であることをエイは常に確信し続けての今日である。技術革新の発展と共に、<関係性で培われる医療>は多分、精神科・小児科・産婦人科だけであろう!?とエイは常日頃考えていた。弁証法の医術であり医療であり臨床である。治療関係の質が問われざるを得ない。エイの体験では、フロイト精神分析が生み出した最高の理論と実践の最高のものがフランス人のジャック・ラカン精神分析であり、とてつもない世界への入り口であることを確信していた。この体験は、まさしく「ゴギーの死」といえるものであり、「“死する者”のテーマそのものである」ということができる。

然しながら、エイの祖国で展開されている臨床の世界は<真逆>といっても良いぐらい<石器時代の産物>に見えてしまう。「ゴギーの死」があたかも存在しないかのような展開をしている。コアである中心点には<常に“ゴギーの死”があり、その“構造が全てを動かしている”という事実>を確証し損なっている。

エイは、いつの間にか「ドゥ・クレランボーのゴギーとは如何なるものであったのか?」を自問自答していた。フーコーが研究してきた医学の歴史考古学は、言語とメルロ・ポンティの“可視化可能なもの/可視化不能なもの”の関係での<“語り”と“Ding(もの)”>の世界で、医学の領域は限りなくこの課題を背負っていかざるを得ない学問領域にしていたということが、エイには痛いほど理解された。それ故に、ドゥ・クレランボーの精神自動症と彼の鏡の前での拳銃自殺に対して、エイのゴギーに関する探究は大きなものになる。特に精神医学の領域にはこの課題が大き過ぎるぐらいに存在しているのである。エイの「ゴギーの死」の本質は、フーコーの探究の対象に在ったことが、嫌になるほど理解できた。用心!用心!火の用心!!!!!!!

 

第六章

 

エイは、今までに出会ってきた祖国の留学者達のことを物思いに更けながら、考えていた。多種多様で色んな人達がいると感じるばかりであった。その中でも、ドラゴン通に分析室を構えているダニエル・シボニーに精神分析のセアンスを受けている日本人とは、相性が良いという感覚があった。彼は、パリからビレール・ル・ラックのエイの官舎にまでやってきたことがある。クールベが、住んでいたオルナンの川の流れと風情ある風景を背景に写真を撮ったことも、例外体験だった。

食用蛙を食べさせてくれるレストランで、仁義を通す倫理を確認しながら分析体験について談話したことは、ことさら面白かった。「自らを・ゴギー・に・導く・体験」は、かなりスリリングな知的体験でありながら、それに纏わる全てのことが話しの材料になり、蛙のキュイスを食べ干していくように、食する対話は醍醐味に溢れていた。

サン・タンヌ病院での再開の時には、本国から超エリートとして留学してきたもう一人の日本人とは違い、「何故か?ラカンを形容する表現やラカンの表現が、勝手に口をついて表現できていた」ことに、後になって大きな驚きの体験になっている。エイと日本人精神科医との関係で、紡ぎ出されていた世界は「もっぱらハイデガーを核にした現象学が中心になっていた」訳だが、不思議と構造主義の世界が開けていたことへの驚きだったのだ。

もう一人の日本人の精神科医とのサン・タンヌ体験は、歴史的経験であって「過去の偉人達の風貌」を「今・と・い・う・歴・史・性」に射影するかの如くの体験で、その場は「アンテルナ」と呼称される場所に併設されているレストランだった。まるで、エランベルジェとラカンが食事を共にして語り合った風景や「三歩下がって、師の影踏まず」に言い表すことができるような「リット」が、瞼に刷り込まれるような体験だった。

いずれにしても、「ブッフ体験」であったのが、面白いとしか言いようがない。如何にも、フランス的でもあり日本的でも在り得た。いずれにしても、エイにとっては「ゴギーとの出会い」に過ぎなかったが、あまりにもその背景に潜む世界が強大なために、歴史そのものの再読が必死になっていることに気付かされ、エイの足はセーヌ川の古本屋と専門書のある本屋に「ゴギーの死」に纏わる「鍵」を散策させていた。この上ない、心地良いイチネレールに酔いしれていた。

エイは、ラカンの生前の時代にもかかわらず、「ゴギーが死んだ」と「ゴギーは死んだ」を呟いていた。これは、「パリならでは!」の体験と思っていたが、実は、マラルメパスツールを始めボーバン等の「ゴギー」が至る所にもあったのである。「まいった!」と呟きながら、足はいつものイチネレールを目指し、「パリの大病院の二つの仕事をこなしている自分」を、当時は考えすらしていなかった。然しながら、パトロンは、パリでの勉強に関しては寛容で、エイは定期的にセクション・クリニックをパリ大学で習得しようとしていた。

いずれにしても、「ゴギー」の影が「現在性」という形容・死・化できない「現実」を構成していることは、他・死・化としか云いようがない。後年になってのエイは、過去の自・分をこの現在性の中で、再・構している。その可能性は、文・字を媒体にするしかない。過去が現・在・性という現・実に、「写し出された射影」として生きている様でしかない。これは、「数学でもあり、物理学でもある世界」で、今や「言語は、“数学”で・あ・る」という「命題」と共にしか成立し得ない。

此処まで来ると、見えてくる世界は「それまでは、見ようにも、見えようがない世界が、み・え・て・く・る・体験」として明確になる。物理学も言語である数学も、本当に有り難いとしか、言い様がない。しかも、「人間とは、“微弱電流電磁磁気気誘導体”に過ぎない」という結論に達する。この事実は、物事を簡単にし過ぎるきらいがあるが、「宇宙の多胞細胞生物生命体」としての「天球のエネルギー体」としての「定義付け」が可能となり、ドゥ・クレランボーフロイトが目指した「生命エネルギー体」の呈する「人間が機能・機構・機制・機序・組織化された構造」を抽出するために、「射影された具象現象」から「エネルギー体に関する仮説」を提示した。ラカンは、プラトン主義からの方法論を尊重し、あくまで、数学的形象化作業を提示し続け、「構造の書」を、「結び目の数学」でトポロジーと合体させながら形象化し、結局は、量子力学にまで到達していたのである。

この三者は、そろって臨床家である、という、共通点がある、ことを、エイは、不思議と面白く、感じ取っていた。「稀有な三人組」と形容できる、この偉人達は、恐るべき、達人でもある。クレランボーが、鏡の前で「自らの“ゴギー”の発掘者になる」という体験は、実に、科学的である。フロイトの、ゴギー体験は、生物・物理学的であり、ラカンのゴギー体験は、生物・数学的であって、超物理学に至り、フロイトの科学的次元を、証明した、ことになる、ことが、良く、分・か・る。これもまた、「イチネレール」である、ことを、エイは、良く理解している。

パトロンの「ゴギー」が、パトロン蔵書に、在る、事実は、イチネレールで、手に死、目に死、購入死た、古本はまたまた「ゴギー」になる訳だが、ゴギーとの出会いが、日常のものに、為ってしまえば、極普通の出来事になってしまう。結局は、「微弱電流磁気電磁磁気誘導体」、である、「生命体」の<軌跡>、にすぎない。単純、明解、な、事実であり、「時空現象」、である。

 

第七章

 

ブッフを待ち望むエイは、「自分が“グールモン”である」ことを良く知っている。ワインの岩田体験から得られた「リット」が、エイに独特の試飲術を発見させた。エイは、「自分が“何も知らない”、人間、である」ことを、熟知しているが故に、<人の体験が、エイを、フィルター、にし、通過して行き、新たな、“知”、が、生み出される>、という、現象が生じることを良く知っていた。「無・知こそが、最大の、知・の・宝庫・だ!」ということを。

ワインの味わい方もまたおつなものだ。瓶の形、ラベルの醸しだす風貌、抜栓をイメージさせる瓶口、ワインの注がれる時の粘度具合、色合い、泡たち具合、香りの漂い方、舌の味覚の地図の描かれ方と味の戯れ方、口腔での味の広がりと凝集性、鼻腔にこびり付いていく香りの種類、咽喉ごしとアルコールの粘膜への絡み具合、食道を経ての香りの残り香、胃部への吸収具合など、様々な、ワインの効果、を、体全体で、味わうことができる、面白さがある。

料理に至っても、結局は、ワインと、同じような、味わい方ではあるが、体の欲し方で、微妙に変化する様が大きいと、いえる。いずれにしても、脳内の伝達物質の、舞踏会みたいなもので、そこには、勝手に嫌でも、描かれていく、図柄が、出来上がる。ブッフ文化は、脳のお楽しみ・文化で、豊かさがある。当然、文化の豊かな所には、豊かな・美酒、と、豊かな・食、とが、備わっている。エイは、クレランボーの「精神自動症」を「せ・い・し・ん・の・じ・ど・う・し・ょ・う」と変え、文化論の、<核>、に、据えた。この現象は、入力された、あらゆる情報が、体の、あらゆる機能が、脳内の、様々な、伝達物質と、連運動の動態を呈しながら、細胞内の、コ・ミ・ュ・ニ・ケ・ー・シ・ョ・ン・が成立して、ホログラムを、形成し、ワインも、食文化も、勝手に、姿を、現してくる様で、エイには、楽しみの、一つになっていた。

このホログラムは、五感・五官という身体性の内と外の突起物の力動によって可能になっている。ある意味、<微弱電流電磁気磁気誘導体である人間>は<量子力学的であり数学的である>という結論によってのみ、具現的写像が可能なものとしての体験である。さらに、具体化すれば、<人間とは、“言語という数学”である接着剤によって、連続性を保てる“コトバを喋るフロイト的無意識の主体”で、基本は“管・人間”である>と形容できる。エイには、当たり前で簡単に思いつく世界ではあるが、岩田学の祖である岩田正人のヘーゲル原理主義で数学の抱えている基本的矛盾の問題をテーマにして、今や、「ゴギー」の称号を持つ人物との、間で、語り合えるぐらいだったことが、不・死・義である。

ここまでくると「ゴギー」の世界とは、<現在を保障している世界の基盤>として、見えない世界に存立していることが分かる。当然この構造からは、宗教性や信仰が生み出されることは間違いないが、「神学の世界とは程遠い」としか言いようがない現象である。エイが、導いていかれる構造の核には、<体験された単純な日常性>を見出していく道標があって、その道標である<エイ関数>を<双数的>に辿って行くだけで十分であることが認識された。

 

第八章

 

エイは、精神世界を映し出す「夢」に関心を示していた。夜中の三時に目を覚まし、静寂に満ちた山の中の雪道を、愛車のスターレットブザンソン迄、走らせ、TGVでパリに赴く、「ラカン派詣」で学んでいた。仕事と学徒としての責務は「ゴギー体験」といえるもので、かなり難解な世界でもあった。そこで表現される世界は、この世の物とは、思えないような代物で、学才に富んだ人物達の集いだった。

普通の人々ならば、この様なアカデミズムは通常のアカデミズムのカテゴリーに属さないモノでしかなく、死かも、シビリンな表現野でしかなかった。それが、なんと、徐々に、「ゴギーの細胞分裂」の如く、無数といっても良い様な、良性の社会効果を生み出したことには、驚きが生じる。この現象は、エイの滞在していたフランスの知的な社会現象に限っていた訳だが、ラテン系の南米まで含めての国々と徐々に英国までにも、ささやかだが、影響を及ぼしているのは、確かなことである。この学派の設立者であるジャック・ラカンが、まだ存命の時期で、エイは、間接的にしかラカンを知らず、後になって、「後期のラカン理論」を直接に拝聴できなかったことを、後悔していた。

ラカン自身の「ゴギーの死」は、書物を通してしか、聴くことができないからであった。直接、耳と目に届き映る“肉声と仕草”から得られる“効果的シニフィアンの連鎖”を体験しそこなっているからである。「ラカンのゴギー」は、前述した「イチネレール」をエイになぞらせ続けた。その結果は、故郷である日本の国に帰国して、発見した超越論的数学であり超越的絶対科学の科学的道標の世界を提示し得るシニフィアンを表記してしまうことに、当時は、知る由もなかった。その表記とは、次のようなもので、かなり簡素化されたものである。

∥0∥<|f(x(---))|

この表記は、|f(x(─))|の函数に如何なる数学的要素を代入しても、常に、P・P・Dといわれる「逆説の逆説の弁証法」を示唆しており、意味としての成立を完全に不可能な物にしている。つまり、「言語は数学であり、要素性を構造として持つ因子との関連性でしか、構造化されない数学的世界の産物である」という定義である。この事実は、当然、数学の世界と切り離せない「理論物理学」に結びついており、結果としては、「超物理学」の世界で引き起こされる「ありとあらゆるエネルギー現象」を表記しているが、もう一つの「天球表皮の絶対値」を表記する<∞を組み合わせる必要があり、究極的にはこの天球に実存する全てのことばを喋るフロイト的無意識の主体のあり様は、∥0∥の逆説的に数学的に記せられた二重の絶対値である||||から解き放たれ安らぎを得られる0<|f(x(-))|<∞という数学的表記に集約される。

この命題を、確実な解に導く表記は既に記載された公式でであり、エイが、思索に思索を重ねた結果の宝物である。しかし、エイが表記しているシニフィアンは、このような表記の可能性を確実に保証できる「科学の領域で研究研磨してきた偉人達及び現在・未来の研究者の“科学言語”」の為の“クラビエでは表記不能シニフィアン   が存在する”という発見だった。

それは、また、汎神論者と位置付けられたライップニッの体系に位置付けられる自然観・宇宙観・宗教観・科学観の核を為す<論理の臍>として提示された<超極小還元不能体>としての定義に合致する<超越論的論理性>を、この不等式は示している。この種の研究であり探索行為は、<現象自体が与えられた要素の次元で生じる構造>に<絶対的普遍性>を発見させるという事実である。岩田学の創始者である岩田正人を含めた歴史的に存在した故人達の偉業を、エイ達学徒は追い求めてきたのであるが、その本質との出会いが可能になったのである。喜ばしいことであるし、ある種の可能性を開いたことになる。

ヨーロッパの歴史は、ギリシャ・ラテンの文明的影響とは切り離せないばかりではなく、ユダヤキリスト教文化を嫌でも核にした論理体系を前提にしなければならない。ライップニッツ的な立場からの全ての概念化は、<“神概念”と対峙している逆説の逆説的構造を論理の中核>に据えている。この“神概念”が人間の存在にまつわる全ての事象と切り離せない“論理性”を強要していることになる。つまり、<“神”と“神概念”>との差異が論理的構造に見出されているということであり、この差異の論理的分節化が必要不可欠であるということを表している。<“絶対的無矛盾”と“無矛盾的絶対者”>とは理論化の根幹にある構造から導き出される論理には縁がないのである。

然しながら、<逆説の逆説の弁証法>が採用された次元の論理には、<無矛盾という彼岸>への力動が無限大に保障され、<“普遍的真実”の不在>を<無限に証明し続ける構造>を保障してくれている。そして、<到達不能な真実の存在>が<逆説的に“普遍的な真実の存在”>を証明している<構造>を明らかにすることになる。

 

第九章

 

エイは、様々なことに思いを馳せる。単純には、人の人生とは?自分の人生とは?等という問いとして!そして、<“問い”という“形式”>が意識されると同時に、<ナンだ!“他者性”と“欲望”の課題か!?>とすぐさまに<生きる主体の弁証法か!>と冷たく、自分を皮肉って冷笑している。然しながら、<喪失とそのゴギーのテーマ>から、<自らのゴギーが“他人の発言”によって、“墓標から消えてしまう”>という体験が為されることに、情けなさを感じてしまう。<“人・人”の“構造”は?>という<“真”の“問い”>が、<“大文字”の“他者”から送られてくる“構造”>を忘れがちになってしまう。つまるところ、<何でも有り!>であると同時に<何も無い!>という結論にしかならない。<人・人>というマテームは、とんでもなく末恐ろしいことがよく分かる。<人というのは、その人に纏わることを何も知らない状況で、何かをしている>という事実があることを!例えば、<人は、何を喋っているのか知らない状況で、何かを喋っている>という類のことである。